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「訃報」の受け止め方。。。。。 [無駄の効用かやっぱり無駄か]

先日の週刊新潮(9月13日号)のコラム『あとの祭り』の中で、渡辺淳一氏が「淋しい死亡記事」と題して語っておられます。

「年齢(とし)を取るにつれて、つい新聞の死亡欄の記事を見るくせがついてしまう」と。。。。

氏がおっしゃるには、

①この死亡記事が正しく書けているのと、書けていないのがある。
②最近、増えてきたのが、「〇〇さんが、死去していたことがわかった」という記事。
③その度に、「ああ、この人は最後は看取る人もなく、孤独なまま亡くなったのか」と思ってしまう。

等々、「訃報」を受け止めた時の感慨を語っておられます。

偉大なる小説家の氏に、異論を申し上げるのも不遜かもしれませんが、

「死亡記事欄に載る」ような人なんて、実は数少ない著名人のはずです。

私のような凡夫には「どうでもいいこと」のような気がします。


現役時代どんなに活躍なさった人でも、80歳を超えたら、もはや、「現場からは遠ざかる」というのがマナーのような気もしますが、新聞に「訃報」が載ることを求めるのもなんだかなぁ! と思います。



先日のこと、友人が、そのまた友人のお父様がお亡くなりになり、新聞に訃報が載っていることを教えてくれました。

齢90歳超。。。。。

現役時代は有名企業の経営幹部の方だったようですが、おそらく、ご本人もご家族も、「訃報記事」に載ることや載っていることなんか気にもとめていらっしゃらないのではないでしょうか。。。。。



一人静かにゆっくりと息を引き取ることも、それはそれでいいじゃないですか。。。。

脳梗塞で寝たきりになり「胃ろう」で生きながらえるよりもいいんじゃないかと思います。



時同じく、昔の部下から、その時の同僚の女性が交通事故でなくなったとのメールが送られて来ました。
彼女は、「訃報欄」には載らないはずです。


一人の人生の終わりが新聞に載ることにそれほど意味があるとも思わないのですが。。。























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