「口やかましい」人が必要な世の中なのかもしれない [鈍感日本人への警鐘]
私は「凡事徹底」という言葉が好きです。
先人の多くは「口やかましく」凡事徹底を旨とする人が多かったような気がします。
当時は暮らすのに息苦しかったという印象もありません。
今のように「緩い」という言葉が似合うような世の中が本当にいいのだろうか?と常々思っています。
今回の大阪の地震でも痛感してしまいました。
「あのブロック塀のことを口うるさく言う人はいなかったのか?」と。
素人でも少しものしりの人なら「鉄筋強度の弱いブロック積は危ない」と思っていたはずです。
鉄筋が入っていなかったり、海砂利用で鉄筋が錆びついていたりと課題はわかっていたはずです。
「働き方改革」とか「パワハラ」に光が当たりますが、こういう言葉の中に何か大切なものまでもが捨て去られているような気がしてなりません。
「口うるさい人」は概して正義感の強い人であったような記憶があります。
私のように気ままに過ごしているものでも、時々「閉塞感を意識する」ことがあります。
この「緩い」「人それぞれ」社会の中にこそ垣間見ることが多いようです。
地方を旅すると、地域おこしには
●「よそ者、若者、ばか者」が必要
●「発信」が必要
とおっしゃっているところほどこういう息詰まるような空気を感じてしまいます。
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