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「赭鞭一撻」(しゃべんいったつ) [ビジネス成功への道標]

「牧野富太郎」ってご存知ですか?
http://www.makino.or.jp/dr_makino/

高知の「牧野植物園」に行ってきました。
http://www.makino.or.jp/

地道だけどすっかり興奮してしまいました。
若い人もかなり来場していました。

関心することは多かったのですが、牧野富太郎先生の「赭鞭一撻(しゃべんいったつ)」には思わず「なるほどー」と。
成功者には共通のことが多いのだと納得。


記録できなかったので、「Lablogue」というブログを拝借させていただきました。
(※無断使用申し訳ありません。)
http://lablogue.dreamlog.jp/archives/1029295198.html

「赭鞭一撻(しゃべんいったつ)」

一. 忍耐を要す。
何事においてもそうですが、植物の詳細は、ちょっと見で分かるようなものではありません。行き詰まっても、耐え忍んで研究を続けなさい。

二. 精密を要す。
観察にしても、実践にしても、比較にしても、記載文作成にしても、不明な点、不明瞭な点が有るのをそのままにしてはいけません。いい加減で済ますことがないように、とことんまで精密を心がけましょう。
   
三. 草木の博覧を要す。 
材料(草木)を多量に観察しましょう。そうしないで少しの材料で済まそうとすれば、知識も偏(かたよ)り、不十分な成果しか上げられないでしょう。

四. 書籍の博覧を要す。
書籍は古今東西の学者の研究の結実です。出来得る限り多くの書を読み、自分自身の血とし肉とし、それを土台に研究しましょう。

五. 植学に関係ある学科は皆学ぶを要す。
植物の学問をする場合、物理学や化学、動物学、地理学、農学、画学(植物画を描く場合)、文章学(植物を文章で表現する記載文)など、ほかの関係分野の学問も研究しましょう。

六. 洋書を講ずるを要す。
(明治初年の段階では)、植物の学問は日本人や中国人のそれよりも、西洋人の学問が遥かに進んで(いた)いるので、洋書を読みましょう。ただし、それは現在の時点においてそうであって、永久にそうではありません。やがては我々東洋人の植物学が追い越すでしょう。

七. 当に画図を引くを学ぶべし。
学問の成果を発表する際、植物の形状、生態を観察するに最も適した画図の技法を学びましょう。他人に描いて貰うのと、自分で描くとは雲泥の差です。それに加えて練られた文章の力を借りてこそ、植物について細かくはっきりと伝えられます。

八. 宜(よろ)しく師を要すべし。
植物について疑問がある場合、植物だけで答えを得ることはできません。誰か先生について、先生に聞く以外ありません。それも一人の先生じゃ駄目です先生と仰ぐに年の上下は関係ありません。分からない事を聞く場合、年下の者に聞いては恥だと思うような事では、疑問を解くことは、死ぬまで不可能です。

九. りん財者は植物学たるを得ず。
以上述べたように絶対に必要な書籍を買うにも(顕微鏡のような)機械を買うにもお金が要ります。けちけちしていては植物学者になれません。

十. 跋渉(ばっしょう)の労を厭ふなかれ。
植物を探して山に登り、森林に分け入り、川を渡り沼に入り、原野を歩き廻りしてこそ新種を発見でき、その土地にしかない植物を得、植物固有の生態を知ることができます。しんどい事を避けては駄目です。

十一. 植物園を有するを要す。
自分の植物園を作りなさい。遠隔の地の珍しい植物も植えて観察しなさい。鑑賞植物も同様です。いつかは役に立つでしょう。植物園に必要な道具もそろえましょう。

十二. 博く交を同士に結ぶ可(べ)し。
植物を学ぶ人を求めて友人にしましょう。遠い近いも年令の上下も関係ない。お互いに知識を与えあうことによって、知識の偏(かたよ)りを防ぎ、広い知識を身につけられます。

十三. 迩言(じげん)を察するを要す。
職業や男女、年令のいかんは植物知識に関係ありません。植物の呼び名、薬としての効用など、彼らの言うことを記録しなさい。子供や女中や農夫らの言う、ちょっとした言葉を馬鹿にしてはなりません。

十四. 書を家とせずして、友とすべし。
本は読まなければなりません。しかし、書かれている事がすべて正しい訳ではないのです。間違いもあるでしょう。書かれている事を信じてばかりいる事は、その本の中に安住して、自分の学問を延ばす可能性を失うことです。新説をたてる事も不可能になるでしょう。過去の学者のあげた成果を批判し、誤りを正してこそ、学問の未来に利するでしょう。だから、書物(とその著者)は、自分と対等の立場にある友人であると思いなさい。

十五. 造物主あるを信ずるなかれ。
神様は存在しないと思いなさい。学問の目標である心理の探究にとって、有神論を取ることは、自然の未だ分からない事を、神の偉大なる摂理であると見て済ます事につながります。それは、真理への道をふさぐことです。自分の知識の無さを覆い隠す恥ずかしいことです。

(高知県立牧野植物園現代語訳)

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