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「国語」と「外国語」教育への議論 [みんなうすうす気づいている]

先日友人と食事をした時のことでした。

大学で英文学を教えている先生氏がおっしゃるには、

①最近の(大学の)先生の中には、原典を読まないで「和訳の本」で大学を卒業して英語の先生になっているものがいる
②学生の中には、英語を話す学生も増えたけど読めないものは多い

と。。。。

最近の若い先生や学生が正統派の英語に触れずして英文学を語るのが歯がゆい様子でした


そこで友人の誰かが、「話せるだけでもいいのでは」と小さな反論をしてみたり。。。。。


まぁ、私のように英語も読めず、話すこともできないものから見ればうらやましいような議論でもありました。


時を同じくして、私の愛する藤原正彦先生は、週刊新潮10月31日号の「管見妄語」の中で、

初等教育、中でも国語と算数の重要性であるとりわけすべての中心である国語であるが、この授業時間数がかつてに比べ激減していることが大問題だ

流行を追い、子供中心主義に浮かれ、他国の真似ばかりしてきたここ二十年間の教育は、PISA(学習到達度調査)などの成績にもすでに表れているように、ダントツの初等教育という四半世紀近くにわたる我が国最大の強味を無に帰しつつあるあるのだ

とおっしゃっています。


教育現場に身を置かれるお二人が、奇しくも「言葉」(言語)のことを問題視なさっているのは面白く感じました。


私としては、「平気でうそをつく」あるいは「うそをついていることを気づかない、理解しない」ような風潮に少し辟易しております

「うそも方便」という言葉とは少し異次元のような気もしたりします。




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