コロナ軽症者用に「金融機関の研修施設」の活用を! [新型コロナ]
新型コロナの感染者が増えていますが、無症状者・軽症者の入院施設が足りないとか。
実は金融機関は東京および近郊に大きな研修施設を持っています。
私が知る限りでは、「銀行」「生命保険会社」「損害保険会社」「証券会社」の大手は、少なくとも100人以上が収容できる設備の整った施設を持っています。
・ホテルのような立派な個室
・大学かと思うような会議室・研修室
・食堂
等々は必ず備わっています。
今、金融機関のこういう施設の利用は、
●移動の自粛
●テレビ会議、テレワークの定着
で、利用度は大きく減少しているはずです。
ホテルの協力が得られないのならこういう施設の借り上げも検討しなければいけません。
金融機関は「社会貢献」「地域貢献」と言う言葉が大好きです。
研修施設には「個人情報」も「信用情報」も日常的にはありません。
コロナ感染軽症者のために「病院」が占有されてしまうリスクももっと丁寧に考えないといけません。
●一般患者の診療・入院機会まで失われている
●医療従事者の緊張もいつまでも持続しません
そういう意味でも、こういった金融機関の研修施設を有効活用することも急がれます。
ある地方の県会議員氏が教えてくれました。
うちの知事は「病床がたくさんある」とテレビで自慢していたが、
●過疎化地域の病院のベッドに余裕ができた
●ただ、コロナ専門の医療従事者の数が足りているわけではない
と。
実は金融機関は東京および近郊に大きな研修施設を持っています。
私が知る限りでは、「銀行」「生命保険会社」「損害保険会社」「証券会社」の大手は、少なくとも100人以上が収容できる設備の整った施設を持っています。
・ホテルのような立派な個室
・大学かと思うような会議室・研修室
・食堂
等々は必ず備わっています。
今、金融機関のこういう施設の利用は、
●移動の自粛
●テレビ会議、テレワークの定着
で、利用度は大きく減少しているはずです。
ホテルの協力が得られないのならこういう施設の借り上げも検討しなければいけません。
金融機関は「社会貢献」「地域貢献」と言う言葉が大好きです。
研修施設には「個人情報」も「信用情報」も日常的にはありません。
コロナ感染軽症者のために「病院」が占有されてしまうリスクももっと丁寧に考えないといけません。
●一般患者の診療・入院機会まで失われている
●医療従事者の緊張もいつまでも持続しません
そういう意味でも、こういった金融機関の研修施設を有効活用することも急がれます。
ある地方の県会議員氏が教えてくれました。
うちの知事は「病床がたくさんある」とテレビで自慢していたが、
●過疎化地域の病院のベッドに余裕ができた
●ただ、コロナ専門の医療従事者の数が足りているわけではない
と。
コロナが教える「人生観」「国家観」 [鈍感日本人への警鐘]
かつて「余暇」と言う言葉がありました。
「本来優先してやらなければいけないこと」をやったうえで余った時間です。
1日24時間、1年365日、人生80年をよく見れば必ず余る時間ができてきます。
今はどうでしょう?
「余暇」と言う言葉を使う人が減りました。
ここのところの「新型コロナ」をめぐるいろいろなことや、あるいはマスコミやSNSで取り上げる事象を見てきてふと気が付くことがあります。
●「GoToキャンペーン」について
「新型コロナの蔓延に伴い経済活動が低迷し、観光産業が弱り切っているので救済しなければいけない」と言うのが本来の一番の要因だと思います。
ただ、
①ビジネスには栄枯盛衰が必ずある
②観光業は利益率が低く、
・非正規労働に支えられがち
・余裕のない企業は設備投資も遅れ、悪循環が拡大する
と言う大きな課題があります。
本来なら、向いていない(うまくいかない)企業はこの業界から卒業や撤退あるいは業態変更をしなければいけないのです。
にもかかわらず、お金さえ投入すれば(お金と言う点滴さえ打てば)生きながらえるという発想が政治の世界にはあるのです。
なぜかというと、明日倒産するかもしれない企業の社長の1票も成功して順風満帆の企業の社長の1票も同じ価値だからです。
そして、都会の10万票よりも地方の10万票の方が当選の近道なのです。
選挙にはだれが一生懸命動いてくれるかは想像に難くないところです。
●「新型コロナ」の対策・取り組みぶりにマスコミは批判ばかり
毎日のニュース番組やワイドショーを見ていると、小池都知事や西村大臣の言動に批判が相次いでいます。
私は「そこかよ」と思ってしまいます。
①誰も対策や対応案を持たないから「個人名」の批判に終始してしまう
②組織や社会は一人特にトップの言動だけでは動きません
・組織で動いている人たちの中から対応案が聞こえてきません
・そういう組織から「やめていった」と言う人の話も聞こえてきません
~沈みかけた船からは優秀な人の多くは早く飛び降りるものです
つまり、トップを批判しても「組織」が活性化しない限り組織的な行動はうまくいきません(特に大きな組織は)。
③西村担当大臣、加藤厚労相、赤羽国交相の発言の歯切れが悪すぎる
おそらく、彼らの背後にいる人物の「国家観の欠如」が原因でしょう。
それは、安倍総理かもしれないし、与党である自民党や公明党の幹部や重鎮かもしれないし、あるいは行政組織現場の責任者:菅官房長官なのかもしれません。
そこを解明して批判する人があまりにも少ないようです。
④菅官房長官の「後出しじゃんけん」のような言動には辟易
なぜか断言し、そしてぎりぎりを過ぎてから常識的な発言をする。
こんなトップがいたらだれが部下でも現場はふらふらしてしまいます。
そして頓珍漢な言動が目に付くようになります。
「コロナ問題」の対策がうまくいかないのは「菅官房長官」の言動がすべてです。
「森友」「加計」「桜」等々、バカ殿の行動に問題があるにしても、御側用人トップのいわゆる「ぽち」ぶりがこの国をおかしくしています。
おそらく国家感がないのでしょう。または見当違いなのでしょう。
⑤「新型コロナ」の立て付けが「知事」の責任優先になっている
パンデミックと言う性格を考えれば、国を挙げての対策チームが動くべきです。
初めての経験であるにも関わらず、船頭ばかりが多くて現場の混乱が目立つようです。
「金」も「権限」も「応援」もなく、知事の責任でやれることは限界があります。
マスコミが知事の人気評定をすることが滑稽に見えてきます。
どの知事もうまくいっていません。
住民が「コロナ」に好かれたか嫌われたかの差に過ぎないかもしれません。
●国民はどうしているのでしょう?
交通道徳の順守によく似てるような気がします。
「私はちゃんと交通法規を守っていますよ」
「警察に捕まらなかったら運がよかった」
「悪いのはルールを守らない人」
「少しくらいはルールを守らなくてもいいだろう」
と同じ考え方に陥っているかもしれません。
薬もなく決め手となる治療法も模索中にあっては「一人一人が丁寧に暮らす」ことが最重要のはずです、
●三浦春馬さんの自殺
彼のことはよく知りませんが、
才能も人気もルックスもあり将来に不安など見えないような彼が自殺と言うのも不思議と言うかもったいなき限りです。
ただ、ふとよぎるのは、
・前向きなことやうまくいったことばかりの人生なのか?
・不安や失敗を「表に出せない」「相談できない」「解消できない」何かがあったのでしょう
と言うこと。
縷々見ていると、「余暇」と言う言葉が浮かんできます。
マスコミやSNSが大隆盛の昨今ですが、光が当たるところが極端すぎます。
と言う図式があるとしたら、
その解決策が「光が当てにくいなら光を当てればいいじゃないか」方式です。
これでは、光を当てて「元気出せよ」「まぁ一杯飲めよ」式になってしまい、もともとの「光が当てにくい部分」のそもそもの問題や課題が隠されたままです。
おそらく三浦春馬さんにもそういう部分もあったのでしょう。
日本社会は今までいろいろな混乱や困難がありました。
でも豊かで繁栄した日本が今も続いています。
「歴史」に学ぶということはそういうことです。
なぜかというと、その都度「知恵」や「工夫」が生まれだされたからです。
そこには「国家観」や「人生観」と言うものがあったからではないでしょうか!
「批判」ばかりの人、その「批判に乗っかる人」はやはりうまくいかないのではないでしょうか。
点滴も必要ですが、自らの「知力」「体力」「能力」を磨き生かしていかなければいけなのはいつの時代でも共通です。
「マスコミ自由主義」、「SNS自由主義」に甘えてはいけません。
彼らの中には
・「余暇」を本業と間違えている
・「本業」を軽視する
ように私には見えてしまいます。
「上から目線」「人それぞれ」と非難・忌避しているうちに誰も患部に関心を持ってはいけなくなってしまったのです。
「本来優先してやらなければいけないこと」をやったうえで余った時間です。
1日24時間、1年365日、人生80年をよく見れば必ず余る時間ができてきます。
今はどうでしょう?
「余暇」と言う言葉を使う人が減りました。
ここのところの「新型コロナ」をめぐるいろいろなことや、あるいはマスコミやSNSで取り上げる事象を見てきてふと気が付くことがあります。
●「GoToキャンペーン」について
「新型コロナの蔓延に伴い経済活動が低迷し、観光産業が弱り切っているので救済しなければいけない」と言うのが本来の一番の要因だと思います。
ただ、
①ビジネスには栄枯盛衰が必ずある
②観光業は利益率が低く、
・非正規労働に支えられがち
・余裕のない企業は設備投資も遅れ、悪循環が拡大する
と言う大きな課題があります。
本来なら、向いていない(うまくいかない)企業はこの業界から卒業や撤退あるいは業態変更をしなければいけないのです。
にもかかわらず、お金さえ投入すれば(お金と言う点滴さえ打てば)生きながらえるという発想が政治の世界にはあるのです。
なぜかというと、明日倒産するかもしれない企業の社長の1票も成功して順風満帆の企業の社長の1票も同じ価値だからです。
そして、都会の10万票よりも地方の10万票の方が当選の近道なのです。
選挙にはだれが一生懸命動いてくれるかは想像に難くないところです。
●「新型コロナ」の対策・取り組みぶりにマスコミは批判ばかり
毎日のニュース番組やワイドショーを見ていると、小池都知事や西村大臣の言動に批判が相次いでいます。
私は「そこかよ」と思ってしまいます。
①誰も対策や対応案を持たないから「個人名」の批判に終始してしまう
②組織や社会は一人特にトップの言動だけでは動きません
・組織で動いている人たちの中から対応案が聞こえてきません
・そういう組織から「やめていった」と言う人の話も聞こえてきません
~沈みかけた船からは優秀な人の多くは早く飛び降りるものです
つまり、トップを批判しても「組織」が活性化しない限り組織的な行動はうまくいきません(特に大きな組織は)。
③西村担当大臣、加藤厚労相、赤羽国交相の発言の歯切れが悪すぎる
おそらく、彼らの背後にいる人物の「国家観の欠如」が原因でしょう。
それは、安倍総理かもしれないし、与党である自民党や公明党の幹部や重鎮かもしれないし、あるいは行政組織現場の責任者:菅官房長官なのかもしれません。
そこを解明して批判する人があまりにも少ないようです。
④菅官房長官の「後出しじゃんけん」のような言動には辟易
なぜか断言し、そしてぎりぎりを過ぎてから常識的な発言をする。
こんなトップがいたらだれが部下でも現場はふらふらしてしまいます。
そして頓珍漢な言動が目に付くようになります。
「コロナ問題」の対策がうまくいかないのは「菅官房長官」の言動がすべてです。
「森友」「加計」「桜」等々、バカ殿の行動に問題があるにしても、御側用人トップのいわゆる「ぽち」ぶりがこの国をおかしくしています。
おそらく国家感がないのでしょう。または見当違いなのでしょう。
⑤「新型コロナ」の立て付けが「知事」の責任優先になっている
パンデミックと言う性格を考えれば、国を挙げての対策チームが動くべきです。
初めての経験であるにも関わらず、船頭ばかりが多くて現場の混乱が目立つようです。
「金」も「権限」も「応援」もなく、知事の責任でやれることは限界があります。
マスコミが知事の人気評定をすることが滑稽に見えてきます。
どの知事もうまくいっていません。
住民が「コロナ」に好かれたか嫌われたかの差に過ぎないかもしれません。
●国民はどうしているのでしょう?
交通道徳の順守によく似てるような気がします。
「私はちゃんと交通法規を守っていますよ」
「警察に捕まらなかったら運がよかった」
「悪いのはルールを守らない人」
「少しくらいはルールを守らなくてもいいだろう」
と同じ考え方に陥っているかもしれません。
薬もなく決め手となる治療法も模索中にあっては「一人一人が丁寧に暮らす」ことが最重要のはずです、
●三浦春馬さんの自殺
彼のことはよく知りませんが、
才能も人気もルックスもあり将来に不安など見えないような彼が自殺と言うのも不思議と言うかもったいなき限りです。
ただ、ふとよぎるのは、
・前向きなことやうまくいったことばかりの人生なのか?
・不安や失敗を「表に出せない」「相談できない」「解消できない」何かがあったのでしょう
と言うこと。
縷々見ていると、「余暇」と言う言葉が浮かんできます。
マスコミやSNSが大隆盛の昨今ですが、光が当たるところが極端すぎます。
「人生」-「明」(光が当てやすい部分)=「暗」(光が当てにくい部分)
と言う図式があるとしたら、
その解決策が「光が当てにくいなら光を当てればいいじゃないか」方式です。
これでは、光を当てて「元気出せよ」「まぁ一杯飲めよ」式になってしまい、もともとの「光が当てにくい部分」のそもそもの問題や課題が隠されたままです。
おそらく三浦春馬さんにもそういう部分もあったのでしょう。
日本社会は今までいろいろな混乱や困難がありました。
でも豊かで繁栄した日本が今も続いています。
「歴史」に学ぶということはそういうことです。
なぜかというと、その都度「知恵」や「工夫」が生まれだされたからです。
そこには「国家観」や「人生観」と言うものがあったからではないでしょうか!
「批判」ばかりの人、その「批判に乗っかる人」はやはりうまくいかないのではないでしょうか。
点滴も必要ですが、自らの「知力」「体力」「能力」を磨き生かしていかなければいけなのはいつの時代でも共通です。
「マスコミ自由主義」、「SNS自由主義」に甘えてはいけません。
彼らの中には
・「余暇」を本業と間違えている
・「本業」を軽視する
ように私には見えてしまいます。
「上から目線」「人それぞれ」と非難・忌避しているうちに誰も患部に関心を持ってはいけなくなってしまったのです。